【トライアスリートが紡ぐ IMジャパンの歴史 ⑦】日本初のトライアスロン実業団チームの誕生。加速する90年代の幕開け。 〜 アイアンマン・ジャパン in びわ湖大会 1990年代前半 〜

IMジャパンの歴史

1992年アイアンマン・ジャパン in びわ湖のスタート前。成熟期を迎えた日本のアイアンマンは選手のスピード化にも拍車がかかっていく  © Jero Honda

日本で開催されてきたアイアンマン・ジャパンのストーリーを、当時の貴重な情報も交えながら紹介していく連載コラム。『アイアンマン・ジャパン in LAKE BIWA(びわ湖)』を舞台にした話は、1990年に入り国内トライアスロン界がさらに発展していく中でのトピックへと移っていく。

text/Hidetaka Kozuma(コウヅマスポーツ)

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進化するレース、そしてアスリートたち

日本のトライアスロン元年と言われた1985年から5年が経ち、90年代に入ると国内でのアイアンマンの存在はより求心力を増し、さらなる輝きを放っていた。
黎明期から成長期、そし繁栄期に向けてとりまく環境が激変していく最中と表現できよう。

びわ湖大会の注目度は高まり続け、競技として『より速く』『さらなる高みへ』というマインドが浸透。
エアロポジションの追求による機材の進化はとどまるところを知らず、80年代後半のスコットバーに始まりカーボンモノコックや26インチフレーム、そしてディスク形状から派生したバトンやテンションホイールなどが次々と登場。
それがトライアスリートの先鋭性を示すことにもなり、まさに活況を呈する時代であったといえる。

80年代後半に登場し、自転車界に衝撃を与えたスコット・バー(写真左)を使用するデイブ・スコット / 当時からディスクホイールはトライアスロンバイクの象徴でもあった(写真右:スコット・ティンリー ©Akihiko Harimoto)

選手のレベルも世界基準へと駆け上っていく。
1992年には、びわ湖大会の全参加者中52人の日本人が10時間を切ってフィニッシュし、プロはもちろんトップエイジグルーパーたちも世界の舞台で活躍。国内のトライアスロンシーンを引っ張っていくインフルエンサーたちの構図も急進的なものになっていた。
その象徴のひとつが日本トライアスロン界初の実業団、チーム・テイケイの誕生だ。
1991年のことである。

アイアンマンの世界的ネットワークの拡大。一方で51.5kmレースのフィールドでは1994年にシドニー五輪(2000年)で正式にトライアスロンがオリンピック種目に採用されることが決定している。
これまで限られた愛好家を中心に発展してきたスポーツが一段、さらにもう一段階とメジャー競技へと発展していく過程においても、重要な役割を果たし続けたチーム・テイケイ。
そんなパイオニア集団を立ち上げ、プレイングコーチとして歴代に名を残す選手たちを指導、けん引し続けたのが八尾彰一さん(写真上)だ。

業界にエポックな潮流を生み出した時代の寵児であったわけだが、その青写真は、実は彼が大学生のときにすでに育まれていた。アイアンマンに想いを馳せていた1980年代前半のことである。
そして、八尾さんはトライアスロンの公式戦に初出場した1985年10月の天草国際トライアスロンのあと、開催地熊本で国内さきがけのトライアスロンチームが催した宴席にて、「将来、トライアスロンの実業団を創りたい」と決意を公言。その6年後に、抱き続けていたひとつの夢を実現させたわけである。

もちろん、彼のプランニングは実業団立ち上げだけにとどまらない。なぜならその視線は常に世界へと注がれていたからだ。
(実業団チーム誕生前に)試行錯誤しながらトライアスロンと向き合っていた80年代後半から、この競技の魅力、そして奥深さを体感し、「近い将来、必ずオリンピック種目になる」と当時から確信。その準備も怠らなかった。

「将来はアイアンマン・ハワイ(世界選手権)で勝って世界一に。そしてオリンピックで金メダルを獲る選手を育てる」(八尾)
そんなビジョンを持ち続けながら激動の90年代を切り開いてきた八尾さんは、アイアンマン世界選手権入賞の谷新吾さん(1993年ほか)の才能を見い出し、シドニーからのオリンピックでは小原工さん、西内洋行さん、田山寛豪さんのレジェンドアスリートをその檜舞台へと導く(累計5人出場)など図抜けた指導実績を挙げているのは周知のとおりだ。

その土壌のひとつとなったのが当時のアイアンマン・ジャパンだったことは言うまでもない。

自身も日本ロングディスタンス日本選手権5位、皆生トライアスロン2位などトップ選手として活躍していた八尾さん。そんな彼が、1987年から出場し続けていたアイアンマン・ジャパンで印象に残っているのが1993年大会(写真上)だったという。
「80年代は皆が手探りの状態でトレーニングをしていました。そこから実業団チームが立ち上がり、いろいろな取り組みにチャンレジして選手たちは結果を残し続けてきたわけですが、僕自身もチーム員たちに見本を見せなければという気持ちは常にもっていて、そういった意味で満足の行くレースができたという記憶が残っています」
この93年にはびわ湖大会をステップに、アイアンマン世界選手権で自身最高位となる総合66位を八尾さんは獲得している(写真下)。

世界を目指す新たな座組を示したチーム・テイケイの活動が、その後の国内トライアスロン界に与えた影響、そして残した功績は言わずもがな絶大だ。

プロトライアスリートの新たなスタイルの確立や追随するほかの実業団チームの誕生、そしてクラブチームの活性化など。そんな価値観が拡張される場のひとつとなったのも、びわ湖のアイアンマンだったわけである。

レースを飾った世界のトップアスリートたち

その一方で90年代に入ったアイアンマン・ジャパンは、大会立ち上げ当初と変わることなく名だたる海外トップ選手たちが毎年レースを彩った。

グレッグ・ウェルチ(写真上/1994年アイアンマン世界選手権優勝)やポーラ・ニュービー – フレイザー(同世界選手権8勝/写真下)、マーク・アレン(同6勝/写真同下)、エリン・ベーカー(アイアンマン&ITUトライアスロン世界チャンピオン)など枚挙にいとまがない。
そして、彼らに対抗しうる新たな日本のホープ誕生がまた注目を集めることとなる。

アイアンマン世界選手権で最多勝利数を挙げたポーラもびわ湖大会には2度出場し、勝利を挙げている

1986年に続き2度目のアイアンマン・ジャパン参戦も優勝で飾っているアレン。ハワイ(アイアンマン世界選手権)6勝目を挙げる前に臨んだのが1995年のびわ湖大会だった

華やかなスポンサー露出、見る者を魅了するTV中継、そして鍛え上げられたアスリートたちの比類なき存在感など。「トライアスロンのカッコよさ」を目の当たりにし、話題となるレースに影響を受けてこの競技を始めたという世代が多くいたことは知られたことだろう。
そんな側面もあわせ持っていた1990年代のアイアンマンシーンは、さらなる成熟期へ進んでいくこととなる。

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〜 本物を知ることができるスポーツ 〜
今回の取材に協力してくれた八尾彰一さんに、みなみ北海道大会に寄せる期待や今後の自身のビジョンなどをお伺いした。

今回の取材地となった兵庫県・川西市にて。ここから北の近郊に位置し、チーム・テイケイ時代から活動拠点としている猪名川町を中心に、現在も八尾さんはトライスロンチームを主宰し指導活動にあたっている

日本で久々となるアイアンマンの舞台に立てる日がやってきました。参加される方には存分に楽しんでいただきたいと願っています。
この競技は本物に触れることができるスポーツです。トライアスロンをやってきて、アイアンマンをやってきてそう感じています。
過酷な練習に向き合い、困難なレースを乗り越えてきた人たちには卓越したマインド、アイアンマンスピリッツが宿っている。
『競争の心理ではなく、その上にある共存のこころへ。トライアスロンを通じて優しい気持ち、ハートが育まれていく』。これはトライアスロンの父、高石ともやさんが僕に教えてくださったことです。
日本のトライアスリートはそんなアイアンマンスピリッツをもっている人が非常に多いと感じています。
決して諦めない気持ちを持ち続ける。そして、時には人に甘えてもいいんです。仲間がいるんですから。
そうやって目標に進みながら自分の個性を大切にして、表現し、活かし続けることができる。
そんなきっかけとなる日本のアイアンマンになれば良いと思います。

20代後半から30歳を超え、私が選手として、コーチとしてトライアスロンに挑み続けていたときはもちろん勝ちに行ってましたし、個人のプロではなく組織のプロとして絶対に時代を変えてやるという志は強かった。純粋なスポーツスピリッツで戦っていましたしストイックでもありましたね。
あれから時間は経ちましたが、そのときのマインドは変わっていないことを最近つくづく感じるんです。
今、僕が目標としていることはもう一度トライアスロンの実業団チームを立ち上げること。そして後輩たちが活躍できる場をつくることです。
それが日本のスポーツ文化の振興につながるでしょうし、もちろんトライアスロン界のためにもなります。もう一度勝ちにいくチームをつくりますよ。(このインタビューは4月に行いました)

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【八尾彰一/やお しょういち】
チームブレイブ所属/ブレイブトライアスロンスクール代表
日本初のトライアスロン実業団『チーム・テイケイ』の監督、選手として18年間活動する。その間にオリンピック2大会、アジア選手権や世界選手権などの日本代表コーチとしても活躍し、日本トライアスロンの発展に尽力する。2009年に兵庫県猪名川町を拠点に地域密着型トライアスロンクラブ『Team BRAVE(チームブレイブ)』を設立。現在は県下4カ所でトライアスロンスクールを運営し、後進の指導にも力を入れている。

>> 【 IMジャパの歴史】過去の連載コラム

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