2回目の開催となる アイアンマン・ジャパン in びわ湖 のスイムをトップで上がる男子優勝のマーク・アレンと2位に入ったスコット・ティンリ―。世界のトライアスロン創成期から活躍してきた選手たちが毎年レースを彩るのもびわ湖大会の魅力のひとつだった
text/Hidetaka Kozuma(コウヅマスポーツ)
1985年に日本で産声を上げたアイアンマン・ジャパンのストーリーを紹介していく当連載コラム。
86年の第2回大会は前年の6月に台風下で行われた時期とは打って変わっての8月31日開催。これは主催者サイドの意向とされており、残暑厳しい炎天下でレースが繰り広げられることとなった。
実はこのレースは競技距離をスイム3.2km、バイク161km、ラン32kmで実施(一説によると交通規制などに関連した対応とのこと)。レース終了後、ハワイのアイアンマンまで1カ月半の期間しかなく、(出場権を獲得した)世界選手権に出場する選手のたちの体調を考慮して距離が短縮されている。
ちなみにこの後のアイアンマン・ジャパンは1988年までの3年間、今回とほぼ同様の短い距離で実施されており、フルディスタンス大会に戻ったのは89年から。一方で参加者は初回大会の427人から86年は561人、その後87年620人、88年752人と着実に増えており、日本のアイアンマン人気が確実に育まれてきた期間でもある。
チャレンジングな未知のスポーツから競技スポーツへ――。
日本のトライアスロン界が成熟していく最中、アイアンマン・ジャパンの存在と役割は大きかった。
たとえばアイアンマン世界選手権へのスロット(出場権)。ハワイで行われるワールド・チャンピオンシップを頂点に、その年代ではまだ世界で5大会しかなかったアイアンマンのシリーズ戦のひとつでもあったびわ湖大会は、10月の満月に一番近い土曜日にカイルア・コナで開催される世界選手権の予選レースの位置づけとして、多くの日本人アスリートが世界へ目を向ける新たな価値観を生み出している。
1995年、自身2度目となるびわ湖大会でも優勝しているアレン。「今までにない美しいコース、美しいレースだった」と後に印象を語っている。2019年に佐渡トライアスロン大会のイベントゲストとして参画したときは「地球上で最も魅力的なコースじゃないかな」と感嘆。彼ならではの情緒と日本とは非常に波長が合うのだろう
世界のスケールが感じられる大会
そんなびわ湖のアイアンマンの舞台は、歴代その時代を牽引する世界的なトップ選手の走りを間近で見ることのできる大会としても人気を博すようになっている。
そして、それを迎え撃つ日本のプロ選手たちのパフォーマンスに大きな期待が寄せられる。そんな図式も多くのギャラリーをひきつける要素となっていた。
1996年、第2回大会の男子レースを制したのはあのマーク・アレン(タイトル写真)。
のちにハワイの世界選手権で5連覇を含む6勝を挙げることとなるレジェンドは、当時、ヨーロッパ最高峰のロングディスタンスレースであるニース国際トライアスロンで4連覇中(最終的にトータルで10勝を挙げる)。最も勢いがあるアメリカンの一角だった。
同じ86年のレースで男子2位に入ったスコット・ティンリ―(写真左)は、この競技が誕生する1976 年にトライアスロンを始めて以降、1999年にプロ引退を表明するまで一線を走り続けてきたレジェンド中のレジェンド。びわ湖大会は1994年まで9年連続で出場しており(写真右は1992年)、もちろんハワイでも勝利している(2勝)。
そういう視点で見ていくと、歴代のびわ湖大会の海外出場選手がハワイのチャンピオンとして参戦、あるいはアイアンマン・ジャパンを経て世界王者に輝いている。その数は快挙にいとまがない。
そして日本のプロ選手はもちろん、エイジグルーパーも各々のカテゴリーで世界を目指すという座組が国内レースで構築。「世界選手権へのスロット」という概念は、国内アイアンマンに出場するトライアスリートにとって独特の輝きを発するステータスへとなっていったのだった。
【歴代のワールドチャンピオンが出場】
ここで改めて過去のびわ湖大会の外国人出場者を回顧してみると、第1回のデイブ・スコットを始め歴代のアイアンマン世界選手権(ハワイ)覇者が日本で世界最高レベルのパフォーマンスを披露していることに目を奪われる。
そんなアイアンマン・ジャパン in びわ湖出場の海外選手たちを振り返ってみよう。
●デイブ・スコット(アメリカ)
いわずと知れたトライアスロンの神様(ハワイ6勝)。1984年に史上初めてアイアンマンで9時間を切る快挙(写真上/ハワイ)を引っ提げて翌年の第1回びわ湖大会に出場。その後1989年にも出場していずれも優勝している。
同じ初回大会となる85年びわ湖で男子2位に入ったスコット・モリーナもその後ハワイで勝利を上げている(1988年)。
2022年のコリンズ・カップ(スロバキア)ではアメリカチームの監督として参加。写真右は同じくチーム監督だったジュリー・モス。言わずと知れたトライアスロン界に伝説を創ったレジェンドで、びわ湖大会は1985年、86年、89年と優勝している
●シルビアン・プントス(カナダ)
双子の妹、パトリシアと “プントス・ツインズ” として注目され1980年代に活躍。1983年 、84年のハワイでは姉妹でワンツーを決める快挙を上げている(いずれも優勝が姉のシルビアンで2位がパトリシア)。びわ湖大会は1986年、87年(優勝)に出場。
●ポーラ・ニュービー – フレイザー(アメリカ)
アイアンマン世界選手権8勝の金字塔を打ち立てているレジェント。びわ湖大会は1988年、89年、92年に出場しており2勝を挙げている。
2022年のハワイを制したチェルシー・ソダーロが、ポーラ以来26年ぶりの女性アメリカン優勝者となったときは最大限の賛辞を贈っていたのが印象的だった(写真右)。
●エリン・ベーカー(ニュージーランド)
1987年、90年にアイアンマン世界選手権で優勝(写真左)。選手としてのパフォーマンスのレジェンド性とともに、まだ成熟期だったトライアスロン界におけるジェンダーイコールを提唱し続け、アイアンマンの賞金制度などにも大きな影響を与えている。びわ湖大会は1990年に出場。
●グレッグ・ウェルチ(オーストラリア)
現在、アイアンマンのコメンテーターやワールドトライアスロン・シリーズのMCなどで活躍するグレッグ・ウェルチは1992年(優勝)、93年、94年(優勝/写真)と3度出場している。1994年はびわ湖大会制覇の勢いをハワイへと持ち込みワールドチャンピオンのタイトルも獲得した。
●ヘザー・ファー(カナダ)
びわ湖大会をステップにアイアンマン世界選手権制覇を成し遂げたひとり。アイアンマン・ジャパンで1995年から97年まで3連覇。1997年にハワイで優勝し一躍脚光を浴びた。
<次の連載記事>
・世界のシロモト。アイアンマンで日本人初の表彰台獲得 〜’87びわ湖〜
(過去の記事)
・アイアンマンジャパンの歴史① プロローグ
・アイアンマンジャパンの歴史② ’85びわ湖/前篇
・アイアンマンジャパンの歴史③ ’85びわ湖/後編