【トライアスリートが紡ぐ IMジャパンの歴史 ⑧】表現者たちが躍動する最高の舞台。そして一時代の区切りへ ー アイアンマン・ジャパン in びわ湖 1994年〜97年 ー

IMジャパンの歴史

1994年のアイアンマン・ジャパン in びわ湖。バイクコースの名所、伊吹山へと向かう坂道を上る谷新吾さん。アイアンマン日本代表のひとりとして世界を見据え、挑む姿に沿道からも大きな声援が飛び交う  © Akihiko Harimoto

日本で開催されてきたアイアンマン・ジャパンのストーリーを、当時の貴重な情報も交えながら紹介していく連載コラム。『アイアンマン・ジャパン in LAKE BIWA(びわ湖)』を舞台にした話は、活況を呈した1990年代中盤から、大会が終了した1997年までのトピックを紹介する。

text/Hidetaka Kozuma(コウヅマスポーツ)

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1985年に滋賀県・びわ湖を舞台にスタートしたアイアンマン・ジャパンは、1990年に入りさらなる活況を呈し、その後、成熟期を迎えていた。
毎年、800人前後となる定員には多くの申し込みがあり、年に一度の大舞台に立つことはトライアスリートのひとつのステータスになっていたといえる。

日本で行われてきたアイアンマンがもつ大きな特色。ほかのロングの大会と一線を画すひとつの要素を挙げるとするならば、やはりそのフィニッシュの先に、ハワイで行われるアイアンマン選手権への道が敷かれている点があるだろう。
それゆえ、完走目標や自己記録の更新、そして各エイジやプロカテゴリーでのワールドチャンピオンシップ出場権の獲得など。それぞれが掲げる崇高な意思が混ざり合い、その目的に向かって困難な道のりを乗り越えてきたアスリートたちが集う場は、見るものの心を奪う大きな求心力があった。理屈抜きに。

さらには、その主役たちまとう華やかなウエアや使用する先鋭的バイク、アイテムなど。
そんな1990年代のアイアンマン・シーンは、トライアスロンの「カッコよさ」が育まれ、確立された時代でもあったと言える。
各々がもつ価値観を具現化しようとするアスリート。それはまさしくレースを彩る表現者たちと例えられるだろう。

稀代のジャパニーズ・パフォーマー

そんな数多のパフォマーの中で、とりわけ万人を惹きつけるキャラクターを持った当時のプロアスリートのひとりに谷新吾さんがいる。

1995年のびわ湖大会で、あのマーク・アレンに次ぐ男子2位でフィニッシュした谷さん。当時のトライアスロン専門誌の表紙を飾ることも度々あった

「シンゴ! Go! シンゴ」
舞台は1995年、アイアンマン世界選手権(ハワイ)のラン序盤。ハイウェイへと駆け上がるパラニロードを走る谷さんに、沿道から大きな声援がかけられる。
世界各国のギャラリーからだ。

屈強な体躯を有するアスリートたちの中、彼らを凌ぐリザルトを残す小柄なジャパニーズ・アスリート。そして何よりも、これまで彼が披露してきた(ハワイでの)フィニッシュ・パフォーマンスが見る者を印象づけ、“シンゴ・タニ” の名は多くの人の心に刻まれていたようだった。(※谷さんのハワイ初出場は1992年)
あの日本人プロ、シンゴは今年も出ているのか? そんな質問を投げかけられた日本の記者もいたくらいだ。

その谷さんのトライアスロンデビューは1988年。
以後、エイジとしてステップアップして行き1991年には皆生トライアスロンで優勝。そのあと日本初のトライアスロン実業団、チーム・テイケイ(帝国警備保障)に所属する。ただ、皆生優勝の実績でスカウトされたわけではなく、自らを売り込んでの入部だったという。24歳のときだった。
「皆生を優勝したのが7月。その前の5月に行われたテイケイの合宿に参加させてもらって、そこで監督の八尾さん(プロフィールは前回の連載コラムを参照)に『チームに入れてください』と直接お願いしていたんです」(谷さん)

それから時間が経ち、7月が終わったあとに谷さんは念願のチーム・テイケイに呼ばれるも、最初は警備員としての採用だったという。
それでもトライアスロンがやれるならと上京し、当時、八尾さんが住んいたアパートに転がり込んだ谷さん。
「その後、皆生で優勝したことを会社にPRしていただき、選手として契約することができたんです。何の実績もない自分を、見込みだけでチームに受け入れていただいた八尾さんには本当に感謝しかありません」

立ち上がった91年から、国内外の主要トライアスロン大会で活躍していたテイケイの選手たち。
その中、ロングディスタンスではとりわけアイアンマン参戦に大きな比重が置かれる傾向が当時からあり、必然的に谷さんとアイアンマンとの関係性も濃いものとなっていく。

95年のアイアンマン世界選手権でのフィニッシュ。すでに谷さんが毎年この場で「何をやるのか?」とまわりにいる人々の注目を集めていた

「国内のロングで言うと、宮古島は日本のトップ選手が競い合うオールスター戦。そして海外から来るプロ選手たちを受けて立つみたいな意気込みで臨んでいました。対するアイアンマン・ジャパンは海外からのトップが数多く来て、日本の選手は挑戦者。私にとってはそんな感覚でしたね」(谷さん)
1992年にびわ湖でアイアンマンにデビューする谷さんは、その年、世界選手権(ハワイ)にも初参戦。
そして93年はプロとしてハワイに挑戦して12位(日本人最高位)を獲得する。バイクのタイムは4時間47分、ランはあのマーク・アレンに次ぐ2位のラップをマークしての快挙だった。
そして、そこから谷さんのアイアンマンへの想いはさらに深まっていく。

特別な存在だったアイアンマン・ジャパン

「92年に初めてコナの表彰台に立ったときに、エイジで4番だったんですよ。その翌年にプロで表彰台に上がれた。当時は上位15位まで表彰されていたので。
そのとき、僕が表彰台の上から見た景色は(前年と)やはり全然違うんですよ。並み居るプロ選手たちがいる同じ舞台に自分が立っている。まさに憧れの場。
あそこにまた上れるチャンスがあるのならやはり挑戦し続けたい。僕にとっては素直にそういう感情が生まれていました」
(翌年の1994年も谷さんは、日本人として宮塚英也さんの10位に次いでプロ15位に入っている)

それ以来、谷さんにとってびわ湖のアイアンマンはさらに意識する存在、重要な位置づけとなっていく。海外から集まるトップ選手たちに挑み、自身の可能性を追求していくため。そして、その先ににあるワールドチャンピオンシップで世界と戦うためのステップに欠かせないレースとしてだ。

94年のびわ湖大会のスタート前。その先にハワイへの道が続いている

一方で、注目されていくプロの宿命として、プレッシャーとの葛藤に悩ませ続けられた時期もあった。1995年から3年ほどだったという。
「自分で精神的に追い込んでいたところがありましたね。成績を挙げて、上に行けば行くほど孤独感を感じるようになっていく。レースが怖くなって、逃げ出したくなるときもありました。その間もそれなりに成績は残していたのですが自分の中では全然納得していなくて、練習していもうまくいかないことばかり続いていた。地に足が着いていないような時期が、97年くらいまで続いていたと思います」

そんな苦しさにもがき続ける中、解決への道筋を示してくれたのはやはり大好きなアイアンマンだった。
「あのとき、選手をやめたいという衝動に駆られたことは何度かあるのですが、アイアンマンをやめようとは一度も思ったことはありませんでした。もう自分の中に染み込んだものなのでしょうね」

アイアンマンという競技に真摯に向き合い続けていく中で、自身を俯瞰的に捉え、現在地を知ることができる。
自分に何が足りないのか、どの方向に進むべきなのか。葛藤し続ける谷さんの中において、解決地へのランドマーク的役割を果たしたのもこの競技だといえる。
アイアンマンは、ときに人の生き方に多大な影響を与えるほどの熱量を発するスポーツなのである。

彼はこれまで出場してきたアイアンマンでリタイアしたことは一度もない。
それは、この競技に対するリスペクトの現れのひとつなのだろう。

フィニッシュロードは自分だけのもの

海外のメディアをも感嘆させた、谷さんがレースで魅せる表現力。
とりわけ注目を集めるフィニッシュでのパフォーマンスはアイアンマン・ジャパンから始まったという。
「日の丸の旗を掲げてジャンプでフィニッシュするとか、自然と確立されていきました。日本でも海外でも、アイアンマンのフィニッシュという気持ちの高ぶりが、そうさせたんだと思います。アイデンティティが弾け飛ぶというか」

今年の宮古島トライアスロンでフィニッシュする谷さん。生まれてくる感情は30年前と変わっていないのだろう

そんな谷さんは、競技を続ける現在でもゴールで自身の個性を表現する瞬間を大切にしているという。
「フィニッシュラインへと続く100m、あるいは200mの花道。あそこは僕だけのものなんです。そう考えて今でもレースをしています。
誰にも邪魔されない。だから、そこだけはもう自由にしようと考えてきました。昔から自然な感覚で。倒れたなら倒れたでいい。自分だけのものなのですから」
1990年代から長年にわたりプロとしてトライアスロンシーンを駆け抜け、類まれなる個性で人々を魅了してきた谷さん。
そのフィニッシュラインでの心の雄叫びは、彼が出場するレースで今なお発せられ、そして続いていく。

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〜『自分チャンピオンシップ』を楽しみましょう 〜
今回の取材に協力してくれた谷新吾さんに、みなみ北海道大会に出場する選手たちにエールを贈っていただいた。 

最近、僕がレースに出るときに思っていることは、「今の自分が一番いい」ということです。プロ時代も含めて昔の僕と比べると、パフォーマンスとかはもう全然へなちょこですけども、トライアスロンをやっていて本当に楽しい。そんな今の自分が最高だなと感じています。
過去なんて、他人なんて関係ないんです。今の自分を受け入れて、精一杯チャレンジする。

これを表現するならば “自分チャンピオンシップ” ですね。
そのとき掲げた目標に自身がどれだけ近づけるのか。到達できればあなたはチャンピオン。たとえダメだったとしても次があります。
そんなレースの舞台を楽しめれば最高なんじゃないでしょうか。

僕はレースに出場するとき、その地域の文化だったり人間性などに触れられることを楽しみにしています。国内外問わずに。
レース前はもちろん、フィニッシュ後にはお世話になったボランティアや地元の人たちとお話し、コミュニケーションが深くとれる点はトライアスロンならではのものがありますよね。たとえ競技のことが詳しくない人でも、話しているだけでお互い世界が広がります。自転車に興味をもってもらい話題が弾むとか。
そうやって皆で盛り上がり、日本で行われるアイアンマンが新たに作り上げられていけば良いですね。

そして何と言ってもフィニッシュロード。そこだけは自分のものだと思って、みなさん最高のパフォーマンスを表現してもらいたいなと思います。
ただ、ジャンプはケガをしないようほどほに(笑)。
そんな “自分チャンピオンシップ” を楽しんでいただきたいですね。

【谷 新吾(たに しんご)】
1988年の名古屋港大会でトライアスロンデビュー。当時、愛知の実業団陸上部の選手として活躍する中、91年に会社を辞めてトライアスロン界初の実業団チーム『テイケイ』に入部する。
以降、ロングディスタンスを中心に長年にわりトッププロとして実績を残し続ける。主な成績は1997年宮古島大会優勝やアイアンマン世界選手権12位(93年)、15位(94年)、1999年アイアンマン・カナダ2位、2001年アイアンマン・カリフォルニア5位。ほか皆生トライアスロン優勝(1991年、2011年、14年)、トライアスロン伊良湖(Aタイプ)9回優勝など。
2001年よりフリーとしてプロ活動を海外を拠点にしてスタート。以降も世界のトップシーンに挑み続けてきた。
現在は愛知県豊川市のアイレクススポーツクラブなどを拠点にトライアスロンスクールを主宰。多くのエイジグルーパーを指導するとともに、自身もアイアンマン世界選手権や宮古島、皆生トライアスロンなどに出場し続けている。京都タチバナ接骨院所属。熊本県出身。

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【1997年で終了したびわ湖大会】

1985年に産声を上げたアイアンマン・ジャパン in びわ湖。以降、数多のアイアンマンの称号を得たトライアスリートを生み、ハワイの世界選手権への間口になってきた。 
日本トライアスロンシーンの主役たちが駆け抜け、競技の発展に寄与したのはもちろんのこと、世界に先駆けて『アイアンマン』という価値観が根付いた国のひとつとして、育まれていく原動力にもなった。
しかし、その歴史は1997年ついに幕を下ろすこととなる。要因は諸説あるが、地元受け入れの疲弊が最も大きかったと言われている。
長時間に渡る運営体制の確立や予算の確保、そして交通規制などの負担を強いられる地域住民の理解など。参加者のために場を開放するという気運の維持が難しくなり、一部の心無いトライアスリートのボランティに対する暴言なども問題視されるようになっていた。

アイアンマン史上初のバイク+ランのデュアスロン競技となった1997年大会。事前に大会継続の不透明性を謳う情報も飛び交い、びわ湖大会特有の緊張感が薄れたレースでもあった

その97年のレース前には読売新聞の全国版に「びわ湖大会中止か!?」という内容の記事が掲載されている。
関係者にも大きな動揺の与える中開催されたレースは、前夜に滋賀県を過ぎ去った大型台風の影響で、スイムアップの場となる桟橋とコースブイが流されスイム競技がキャンセル。アイアンマン・ジャパンで初のデュアスロン大会となり、5秒おきにひとりずつバイクからスタートするタイムトライアル形式で実施されている。
初めてアイアンマンに挑戦した選手たちからも「3種目で行いたかった」という声が多々聞かれたが、このあと滋賀県・びわ湖で再び舞台の幕が上がることはなかった。
それから3年間、日本国内でアイアンマンは実施されていない。
しかしその空白の期間中、新たな歴史をスタートさせるべく準備は進められていた。
そして2001年、アイアンマンを受け入れる島民たちの熱狂の中、トライアスリートたちが躍動する場が誕生することとなる。
(次回に続く)

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