デビューから2002年の現役引退まで日本トライアスロン界を牽引し続けてきた宮塚英也さん。1994年のハワイでは自身2度目のアイアンマン世界選手権トップ10入りを果たしている(写真上)
日本で開催されてきたアイアンマン・ジャパンのストーリーを、当時の貴重な情報も交えながら紹介していく連載コラム。今回は1988年の『アイアンマン・ジャパン in LAKE BIWA(びわ湖)』。このレースで4位に入り、世界の舞台へと名を馳せた宮塚英也さんの話を中心にお届けする。
text/Hidetaka Kozuma(コウヅマスポーツ)
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さらに人気が高まった88年のレース
1988年は日本のロング、ひいてはトライアスロン界のひとつの転換期と表現できる。
ヒデヤ・ミヤヅカ。
その名が世界ロングの最高峰、アイアンマン世界選手権(ハワイ)で9位に刻まれたシーズンだ。
もちろん、この快挙の間口へは88年7月のびわ湖大会出場から続いているわけだが、実は宮塚英也さんは87年もハワイの出場権を(アイアンマン・ジャパンで)獲得していた。しかし、エントリーしなかったという。
「1987年の(びわ湖)大会のことは良く覚えていて、ずっと雨の中でのレースでした。初挑戦で6位に入りハワイの権利をとっていたのですが、当時私はアイアンマンより競技性の高かったショートのレースに挑戦していきたいと考えていたので、ほとんど(ハワイには)興味がありませんでした。この3カ月前に行われた宮古島トライアスロン(こちらも初参戦)で4位をマークしていて、(自分は)ロングの才能もあることを感じてはいたのですが」
トライアスロンを始めた当初から宮塚さんは本場、アメリカで行われていたUSTS(USトライアスロンシリーズ:多くのトッププロが参戦した51.5kmのエリート・シリーズ大会)出場などを目指していて、実際、1989年はシーズンのほとんどをアメリカを拠点にして活動している。
1988年のびわ湖大会。日本人ではトップの総合4位に入り、プロとしてのキャリアを国内でも本格的にスタートさせた
「ただ87年のびわ湖のあと、どうして(ハワイに)出ないんだ? と多くの人に散々指摘されていて、その翌年も出場しなかったら一体まわりに何を言われるのか分からないと思ったので」と、なんとも彼らしい理由で初ハワイに挑んでいたのだった。
その1988年のびわ湖は開催4回目を迎え、85年の初回大会から年を追うごとに参加者が増加。過去最高の752人がエントリーしていた。
また第1回、3回と大雨に見舞われたレースだったが、それらとは打って変わって天候も良好。スタート時の気温は23.3℃、水温24℃というコンディションの中で行われている。
毎回レースのトップ争いを彩る海外からの招待選手はこの年も豪華。
特に注目すべきは86年にハワイを初制覇したあと、通算8度のアイアンマン世界チャンピオン(男女あわせて合計での最多勝利数)に輝いているポーラ・ニュービー – フレーザー(写真下)が初来日。そして初優勝を飾っているところだろう。
1985年・初回大会のデイブ・スコット、第2回のマーク・アレン、そしてスコット・ティンリーなど、毎年世界のトップ選手が出場し、男女の優勝者に名を連ねていたびわ湖大会。
87年大会は 城本徳満さんが男子3位に入り フォーカスされていたのだが、この年はこれまで日本人のスケールを大きく打ち破る若手の誕生をギャラリーたちは目の当たりにしている。
歴史の節目となったレース
総合4位に入った宮塚さんは、表彰台にこそ届かなかったがトップとの差が16分。スイムを外国人選手たちに次ぐ10位でアップしたあと、「日本人同士で集団をつくって順位を争うのはイヤだった。(スコット)ティンリーらの海外選手についていくことだけを考えて、たとえランで潰れてもいい」というプランでガンガンとバイクで飛ばす。
「ペース配分がどうのというよりも、今は前を走るヤツだけを見て自分を追い込む。それをやっているんだから」(当時のインタビュー)
そんな勢いをまとった24歳のライジングサンは、これまでのびわ湖大会史上、トップとのタイム差を大幅に短縮しての日本人1位(総合4位)を獲得。しかし、これは宮塚さんにとっては想定内の結果だったようだ。
「この年の4月は宮古島ではなくてオーストラリアのゴールドコースト・トライアスロンに出場していました。マーク・アレンやマイク・ピグなど当時、そうそうたる世界トップのメンバーが集まるレースで自分は13位に入っていたんです。日本ではあまり知られていませんでしたが、これは快挙だと自認していて、びわ湖で日本人トップくらいはマークできるだろうと。優勝者とは、これまでと比べると大して(差は)離れていなかったかなぁ、といったくらいでしたが」(宮塚)
1985年にアイアンマン・ジャパンが生まれ、トップもエイジもより「世界」を肌で感じられるようになり、挑戦のステージも身近になっていた。
そんな最中、宮塚さんが見せたパフォーマンスは、世界の舞台で戦える日本人の可能性を感じさせてくれた。まさに節目となった1988年のびわ湖大会だったといえる。
第1回大会からバイクコースの名物応援スポットとなっている通称 “てっぺん坂”。伊吹山の麓から始まるコースは、いつしか坂の登り口で「頂上までペダル1,000こぎ」という看板が立てられるようになり参加者を奮い立たせる名所にもなった
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ミヤヅカが打ち立てた真の金字塔
この年、宮塚さんは10月のハワイで9位に入るという快挙を成し遂げている。
そのレースでは、現地で取材していた日本人プレスたちの反応を見るのが面白かったという。
「これまで(ハワイで)トップの順位争いにからむ日本人はいなかったわけで、カメラマンにとっては待ち受けるタイミングや場所が例年とことごとく違っていた。そんなレースが進むに連れ、彼らも興奮し、気持ちが高ぶってきているのが伝わりましたね。宮塚がここまで来ている! 日本人だって行ける。世界でやれるぞ!!」っていう。
アイアンマン世界選手権で9位に入り名実ともに世界デビューを果たした瞬間。日本のトライアスロンメディアの盛り上がりも相当なものだった
ただ、この1988年大会については本人はトップ10入りを想像していなかったという。
「確かにあのころは勢いがあったし、若くて生意気でしたし(笑)。行けるころまで行こうといった感じでしたが、正直マグレじゃなかったのだろうか、とも思っていました」
それだけに、順位は下がったものの翌年のハワイで14位をマークしたときは、すでに自信はつけていたのだが、少しホッとしたことも否めなかったという。世界で渡り合っていく実力は本物だということを、再びリザルトで証明できたことに。
(また、当時はプロ15位以内に入れば、翌年のハワイ出場のシード権が与えられていた)
「強い者が勝つ、偶然のないレース」
過去のインタビューで、宮塚さんはハワイのレースをこう表現したことがある。
これは、彼が世界の舞台で戦い続け、肌身で感じた経験が言わしめるものであり、結果を残し続けてこそ真のプロであるというポリシーの表れでもある。
1994年に2度目のトップ10入り(10位/写真上)を果たしたときは、88年のときよりも数段嬉しかったという。強い者のみが結果を残せるレースの象徴ともいえるだろう
宮塚さんの選手時代のバイオグラフィーを紐ほどくとき、「2度のハワイ・トップ10入り」というプロフィールが必ずといっていいほどハイライトに挙げられ、それを見る人も多いだろう。
一方で、そのハワイの成績を少し俯瞰して見ると、宮塚さんはアイアンマン世界選手権に合計13回出場し、そのうち9度、20位以内のリザルトをマークしている。
実は、これだけの実績を残し続けているトップ選手は世界でも数えるほどしかいなく、これこそが彼が打ち立てたアイアンマン史上5本の指に入るであろう金字塔といえるのだ。
そんな宮塚さんは現在、9月15日に実施されるアイアンマンジャパンみなみ北海道のスーパーバイザーに就任し、大会のアドバイスなどに携わっている。
昨年11月に大会の実施が公表された実行委員会では、「9年ぶりに開催される日本のアイアンマンで、ワールドチャンピオンシップ挑戦を目指す参加者の皆さんはぜひ出場権を獲得し、世界の舞台で活躍してもらいたいと思っています」とエールを贈っており、自身の経験、そして着眼点などを今後も大会に注ぎ込んでくれることだろう。
今年6月で日本にアイアンマンが生まれて39年が経った。そして節目を迎える瞬間はもうすぐやってくる。
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【宮塚英也/みやづか ひでや】
1985年よりトライアスロンを始め、88年からプロトライアスリートとして活動。現役時代、宮古島トライアスロン4勝、第1回ロングディスタンス日本選手権優勝など数々の実績を挙げ15年以上トップを走り続けてきたレジェンド。特にアイアンマン世界選手権(ハワイ)では計13回出場し、9回の20位以内のリザルトをマーク(うち2回のトップ10入り)。1992年は年間のシリーズポイントで争うアイアンマン・プロシリーズで3位を獲得するなど他の追随を許さないキャリアを誇る。
2002年シーズンで現役を引退したあとは選手の指導を中心にイベント運営、商品の開発などを展開。今年のアイアンマンジャパンみなみ北海道では大会スーパーバイザーに就任している。
長崎県出身、栃木県那須塩市原在住。
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