【トライアスリートが紡ぐ IMジャパンの歴史 ⑤】世界のシロモト。アイアンマンで日本人初の表彰台獲得 〜 ’87アイアンマン・ジャパン in びわ湖 〜 

IMジャパンの歴史

© Jero Honda

日本で開催されてきたアイアンマン・ジャパンのストーリーを、当時の貴重な情報も交えながら紹介していく連載コラム。今回は1987年の『アイアンマン・ジャパン in LAKE BIWA(びわ湖)』。このレースでも躍動したトライアスロン界のご意見番、城本さんの話を交えながら当時を振り返ろう。

text/Hidetaka Kozuma(コウヅマスポーツ)

アイアンマン・ジャパンの歴史が動いた第3回大会

日本でアイアンマンのヒストリーを語るとき、この人抜きに話を進めることは不可能だ。
城本徳満さん。日本のトライアスロン黎明期から活躍してきたトッププロであり、業界のフロントランナーとして長年に渡りその名を刻み続けるレジェンド。国内で初めてトライアスロン専門ショップを立ち上げるなど、言わずとしれたトライアスロン界のパイオニアである。

一度遭遇したら忘れることができないほどエネルギッシュなフィニッシュシーン(写真は1992年のびわ湖大会)は、フランスのトライアスロン誌の表紙を飾ったこともある

宮古島トライアスロンでは1985年の第1回大会から31回連続出場し、そのうち招待選手として30度参加(つまり招待制度がスタートした第2回大会からゲストとして30年間出場している)。
アイアンマン・ジャパンでも同じく1985年(第1回)から97年のびわ湖で行われる大会が最後となったレースまで13回連続出場(うち3度の日本人トップ)などの戦績を誇る。

城本さんがトライアスロンを知ったのは85年の1月。当時、シマノと並ぶサイクルパーツメーカーだったマエダ工業が擁するサンツアー・レーシングチーム所属の自転車選手として活躍していたころだった。
「NHKの放送やったと思うんですけど前年(84年)の(アイアンマン)ハワイのレースを紹介していて、そこでアメリカの元オリンピック自転車代表選手がカテゴリー優勝しとったんですよ。僕その選手とは昔、自転車の国際大会で一緒にレースをしたことがあって勝ってるんです。そんなトライアスロンの話を会社の部長にしていたら、『お前、それに出ることになってるんやぞ』と言われましてね」
4月に初めて行われる宮古島トライアスロンのことだった。

トライアスロンショップ・シロモトのオフィスにて。アイアンマンをはじめ国内外のレースの入賞パネルやトロフィーの数々がズラリと並んでいる

トライアスリート・シロモトの誕生
『ちょっと待ってください。僕泳げませんよ』(城本)
『何言うとんねん、お前。山へ行くトレーニング(自転車練習)途中の休憩のとき、よくみんなで気分転換に川で泳いでいて一番速かったって聞いてるで』(部長)
『あれは流れが速いところをちょっと浮いていただけですよ』
『これは業務命令やから』
『練習時間がないですやん。午後3時からの(自転車の)全体練習前にプールで泳がなければいけませんし』
『そしたらお前、今日から11時半で仕事上がっていいから』
『スポーツクラブに行くのにもお金がかかります』
『そやったら領収書もらっとけ』

かくして31歳のとき、城本さんのトライアスロンへの道が開かれることとなった。

企業の広告塔として重要な役割もあったのだろう。初トライアスロンながら結果も求められた。
『総合で10位以内に入れたら、会社が参加費や旅費など全部出すことになっとるから』(部長)
宮古島への交通費や滞在費、それに大会参加料などすべてを自分でまかなうとなると総額はかなりのものになる。

黎明期のパイオニア
それから城本さんは、泳ぎの息継ぎができない状態ながらもプールで練習を始める。
「25mをノーブレスですわ。それでハァハァ言いながら一旦休んでまだ戻るを繰り返していたのですが、『おい、ちょっと待てよ。レースでは3km泳がないとアカンやないか』と。そのあと紀伊國屋に行って2冊買ったんです。泳ぎの本を。それで息継ぎができるようになりました」
そのバイタリティは昔から変わっていない。そして、ここからが城本さんの真骨頂だ。

「泳げるようになって練習中に思ったんです。自転車は空気の抵抗を考えて、前投影面積を小さくして走るでしょ。水泳は水の抵抗をいかに受けないようにするかが大切だなと。だから腕のかき方や身体のポジションとかいろいろ考えながら泳いでいましたね。ヒジを立てて、泡を切ってから水をキャッチしようとか」

やると決めたらとことんやる。
そんな集中力とクレバーさをあわせ持った、今なお数多のエピソードが語り継がれる唯一無二のアスリートは、プールに通いだしてからわずか10日で1,500mを25分43秒で泳げるようになっていた。

まだ成熟していないスポーツで、しかも参加したことのない競技への準備やトレーニング方法などを自身でいろいろ考え、試し、そして結果を残していく。
城本さんの話を聞いていると、彼のトライアスリートとしてのステップは、まるで日本のトライアスロン史の歩みを投影しているかのようにも思える。
「クイックターンとかまだできませんでしたけど、体力には自信がありましたからね。ハハハ」(城本)

宮古島から始まったトライアスロン人生
果たして、城本さんの初レース(第1回宮古島)は総合5位のリザルトを獲得する。
「スイムは17位で上がれたんですよ。バイクは自分の本業だったんで追い上げて一時2位に上がったんですけど途中で脚がケイレンして後退。3位でランをスタートしました」
南国の陽が照りつける中、生まれて初めてのフルマラソンは過酷そのものだったがなんとか踏ん張って5位に。
無事、会社からのノルマも達成できたわけだが、「走っている最中は『こんなキツイことなんで僕がせなあかんねん』とずっと考えていて、レースが終わって会社に戻ったら『僕はもう二度とトライアスロンはしません』と言おうと思ってました」と打ち明ける。
しかし、である。

「ゴールした瞬間ですね。なんか、もう何とも言えない楽しさが湧いてきて、僕、次の大会はどこでやってるんかなぁ? なんて思ってました。そこで聞いてみたら、2カ月後にびわ湖でアイアンマンという大会があるというじゃないですか。会社も出てくれるのか? と聞いてくるので『もちろん出ますよ』と即答でしたね」
あまりの心情の変化に本人が一番びっくりしたという。
「高校生のボランティアに両脇を抱えられながらね。 フィニッシュ後の何とも言えない充実感というのでしょうか。『あんなに苦しかったのに、この感動は一体何なんやろう?』と。それでもう次決めてました」
ここから城本さんの、この競技とののっぴきならない付き合いがスタートすることになったわけだ。

びわ湖大会の歴史が動いた1987年
城本さんが初めてアイアンマンにチャレンジしたのが、滋賀県を舞台に日本で初開催となるアイアンマン・ジャパン in びわ湖(写真上)だ。
レース期間中に大型の台風が開催地を直撃し、大会の開催自体が危ぶまれるほどの悪コンディションの中、優勝したデイブ・スコットやスコット・モリーナに次いで総合4位を獲得。日本人では1位だった。

これに始まりアイアンマンという競技において、日本人の過去のリザルトをたどってみると、城本さんの戦績は「日本人初」という冠を随所に見ることができる。
その代表のひとつが87年のびわ湖大会だろう。

まず、このレースのプロフィールを振り返ってみよう。
国内でアイアンマンが誕生してから3年目。参加者は初回大会の427人から86年の561人、そして620人と増え続け、日本のアイアンマン人気が確実に育まれてきた期間でもある。
そして当初から国内トップ選手はもちろん、第1回大会男子優勝のデイブ・スコットや第2回勝者のマーク・アレンなど世界を代表するアスリートが華やかに名を連ねるレースでもあった。

1983年 、84年のハワイでは姉妹でワンツーを決める快挙を上げているプントス姉妹(いずれも優勝が姉のシルビアンで2位がパトリシア)も参加していた

87年の大会も、アイアンマン世界選手権(ハワイ)で2勝を挙げているスコット・ティンリーや、女子ではびわ湖の第1回、第2回大会を連覇しているジュリー・モス。双子の姉妹で1980年代に活躍したシルビアンとパトリシアの “プントス・ツインズ(写真上)” などが出場している。

そんな中、行われたレースは初回大会と同じく大雨の中での実施。
男子優勝はスコット・ティンリーだったのだが、メディアの注目は3位に入った城本さんにも大いに集まった。日本人で初のアイアンマン総合表彰台の獲得だ。

前年大会では、日本人選手は上位の海外勢と約1時間のタイム差をつけられていて、世界トップとの力量差をまざまざと見せつけられていた観があったのだが、このときの城本さんはティンリーから24分遅れ。順位はもちろんのことその内容にも高い評価が行き交った。
レースではバイクの120km地点でスパートを掛けて上位に抜け出すものの、ラン後半で一時4位に後退。そこから踏ん張ってのリザルトである。

「あのときも雨、雨、雨でしたね。苦しかったですけど、僕、いつもレースで思うのは『自分より前におるやつは、(自分より)もっと苦しんでるんやから前を走っているんだ』ということです。だから、まず自分に勝たなければいけないと、しんどいときほど自身に言い聞かせるんです」

このコメントに代表されるように、まわりが騒ぐのとは裏腹に、拍子抜けするほど本人はレースの順位には固執していないことに驚かされる。
「自転車レースは駆け引きが重要になってきますがトライアスロンは違うでしょ。ある意味、自分の力のみで走り切るタイムレースみたいなもの」
「だから僕は毎回レースごとに3種目の目標タイムを設定して、それをクリアしようと頑張っていただけなんです。言い換えると、自分自身との戦いの場としてレースに臨んでいたということ。その結果ですね、順位もリザルトも。2000年のハワイのときもそうでした」とさらりと言ってのける城本さん。
このとき(2000年)のアイアンマン世界選手権では9時間38分のタイムをマークし、47歳にして総合87位という未到ともいえるリザルトを残している。
そのときのランタイムは3時間12分。もちろんエイジの世界チャンピオンだ。

1987年に立ち上げたショップを前に。選手として、経営者として創業当初から “トライアスリートにより良いもの” を具現化し、探求し続ける姿勢は不変だ

そしてもうひとつ、城本さんがマークした驚愕の記録で触れておかねばならないのが8時間57分00秒。世界で初めて40歳代の選手が9時間を切ったレースである(1994年のびわ湖大会)。
「デイブ・スコットとマーク・アレンは僕の2コ下なんですよ。だから記録を作ったのは自分が先なんですよね。まあ、彼らが40になったときにはすぐに(8時間57分の)タイムを塗り替えてましたけど。でも最初に(9時間を)切ったのは僕ですんで(笑)」

できるかぎりの準備(練習)を行い、その内容を分析してタイムを設定する。
「あとは自分が自分を信じて頑張り続けるだけですから」
結果は自身で手繰り寄せるもの。トライアスロンで得た哲学は当時の多くのトッププロたちにも影響を与えている。
そんな城本さんのパフォーマンスが炸裂した87年のびわ湖大会は、日本ロングのプロがいよいよ世界へ肩を並べる時代に差し掛かったとまわりに感じさせた舞台ともいえるかもしれない。

成熟していく日本のトライアスロン界。メジャーになっていくアイアンマン・ジャパンーー。
そして翌年、その舞台から世界へという過程は現実のものとなる。

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〜 9月のレースは見に行こうと思っているんですよ 〜
今回の取材に協力してくれた城本徳満さんに、みなみ北海道大会への期待や日本のアイアンマンに寄せる想いをお伺いした。

バックの右からふたつめに置かれている盾は2000年にハワイのエイジチャンピオンに輝いたときに表彰された証でもある

9月のアイアンマンジャパンは見に行こうと思っているんですよ。女房と一緒にね。
やはり大会は自分の目で見ないと分からないじゃないですか。楽しみですよね。どんな運営がなされるのかとか。
実は僕、この先またハワイに挑戦したいと思っているんです。これまで(アイアンマン世界選手権は)16回出てるんですけど。何と言うか、ほんまにもう苦しくて倒れそうになるんですけど、思いっきり「生きてる」っていう感じがするじゃないですか。
今はそんな(アイアンマンに出場できる)体力はないですけど(自分がトレーニングをして)どう変わっていくか試してみたいんですよね。
人間ってやればいくつになっても向上するでしょ。体力も頭も。
僕、今は毎日2,500m泳いでいるんですけど最初は50mを1分15秒持ち(サークル)で10本まわすのがほんとにキツかった。でも続けていたら同じメニューで30分まわせるようになってますからね。
アイアンマンが行われれば、いろいろなマスコミが取り上げるだろうし、それを見てトライアスロンをやろうという人も増えるでしょう。日本のトライアスロン界全体にとってもプラスに働きますよね。
新しいアイアンマンが地元に根付いて継続していけば良いですね。
そしたら僕がまたハワイを目指すとき、北海道の大会で権利を得るために頑張ることになるのでしょう。

【城本徳満/しろもと のりみつ】
福岡県出身。幼少時に大阪市内で過ごした後、1973年にブリヂストンサイクルの九州工場に就職。そのかたわら自転車競技に取り組む。そののち自転車パーツメーカーのマエダ工業へ移り、同社が擁するサンツアー・レーシングチーム所属のトップサイクリストとして活躍する。1985年の第1回宮古島トライアスロンに出場したあとトライアスロン競技に転向。国内外の数々のレースで実績を残し続ける。1987年にプロとなり、同年3月に日本初のトライアスロン専門ショップ『トライアスロンショップ・シロモト』を設立。プロ選手、そして業界ビジネスのフロントランナーとしてトライアスロン界をけん引し続けている。


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